2022.Nov.22
REPORTS2022年度第5回BAIRAL研究会
「仕事の可視化から身分の匿名化へ:デジタル時代における日本の記者職の変容について」報告
金 佳榮(B’AIグローバル・フォーラム特任研究員)
・日時:2022年9月7日(水)17時30分~19時
・形式:ハイブリッド(対面 + Zoomミーティング)
・言語:日本語
・ゲストスピーカー:セザール・カステルビ(パリ・シテ大学 東洋言語文化学部日本研究学科 准教授)
・モデレーター:金 佳榮(B’AIグローバル・フォーラム特任研究員)
(イベントの詳細はこちら)
2022年9月7日(水)、B’AIグローバル・フォーラムのリサーチ・アシスタントが主催する研究会「BAIRAL」の2022年度第5回がハイブリッド形式で開催された。今回は、パリ・シテ大学東洋言語文化学部日本研究学科のセザール・カステルビ准教授をお招きし、近年ツイッター上で増えている「匿名記者」アカウントを事例にデジタル時代における日本の記者職の変容についてお話いただいた。
職業社会学の視座から日本のジャーナリズムについて研究しているカステルビ氏は、もともと「日本における記者の可視化」に関心があり、かつては存在感があまり大きくなかった記者個人が表に出るようになったプロセスとその背景、またその現象がジャーナリズムに及ぼす影響について博士論文を書いたという。彼によると、日本において記者の可視化が本格的に進み始めたのは1990年代後半から一般的となった日刊紙における「署名記事」を通じてであった。また2000年代以降は、伝統メディアのデジタル版やオンラインベースのニュースメディアが盛んになり、「記者ページ一覧」や記者のSNSアカウント(実名)などを通じて記者個人の可視化がさらに進むことになる。カステルビ氏は、この現象の背景として、記者を表に出すことで失いつつあるメディアへの信頼を取り戻すとともに、記者にファンを付けることで読者を増やそうとするメディア企業の戦略が大きな要因であったと分析する。さらに、その結果として企業が社員の評価を独占できなくなった側面がある一方で、ネットにおける記者の可視化については、会社の方針と記者個人の意見が必ずしも一致しない問題や、記者が攻撃の対象になりやすいという問題など、課題も多いと指摘した。
このように、主に記者の可視化に焦点を当てて研究をしてきたカステルビ氏だが、近年、その傾向とは逆行する事例が浮上し、新たな研究対象として調査を始めたという。その事例とは、いわゆる「匿名記者」、すなわち「記者」を名乗るツイッターの匿名アカウントである。公共性を重視する職業活動に属していると主張しながらも名前や社名を伏せて発信するこのようなアカウントの存在をどのように受け止めれば良いか。このような疑問の下、カステルビ氏はオンライン観察や半構造化インタビューなどの方法で当該アカウントについて調査しており、現段階でわかったことの一部を本研究会で紹介した。
調査の結果によれば、匿名記者アカウントの全体数は非常に把握しにくいが2020年から増加しているのは明らかであり、約半数はプロフィール欄に所属している媒体の種類を記入していて、それを見る限りではテレビより新聞記者の方が圧倒的に多いことがわかる。特に、匿名アカウントを作成した動機については、プロフィール欄の記入とインタビュー、両方から類似した結果が得られ、同業の人たちとの交流が大きな目的である一方で、メディア業界と自分のキャリアの将来についての不安に言及するアカウントも多いという。中には、実名で発信した時の攻撃を懸念する声もあり、ネットにおける記者の可視化の課題として指摘された「記者個人が攻撃対象になりやすい」という問題と匿名アカウント増加の間に何らかの関連性があり得るとの説明もなされた。
発表に続くディスカッションでは、現在メディア企業で働いている参加者からの質問や意見が多く寄せられた。ある参加者は、匿名アカウント作成の理由を考える上で一つポイントになるのは実名でどれだけ自由にものが言えるかであるが、会社によっては実名発信を推奨するところもあれば事実上規制するところもあり、所属会社の方針に影響を受ける部分が大きいという現状を共有した。これに対してカステルビ氏は、会社や国によって確かに状況が異なると同意した上で、会社の方針が曖昧だと問題が発生した時に記者個人が責任を追わされやすいので、ガイドラインをしっかり設けることは大事だとの見解を示した。また、匿名アカウントの属性としてテレビより新聞の記者が多い理由に関する質問に対しては、記者の総数自体がそもそもテレビより新聞業界で多いのが根本的な理由としてあり得るほか、調査結果で示されているように「メディア業界の将来への不安」が匿名アカウント作成の一つの動機だとすれば、テレビより新聞業界でアカウント数が多いのも納得できると述べた。一方、ネット空間における匿名性とジェンダーの関係という観点から、匿名アカウント運営者の属性においてジェンダー差はないのかという質問もあった。カステルビ氏は、ジェンダーを明記しないアカウントが多いため具体的な調査結果はまだ出ていないが、匿名アカウントの動機の一つとして攻撃への懸念が挙げられていることと、様々な調査で女性記者が男性記者よりネット空間において攻撃の対象になりやすいという結果が出ていることを合わせて考えると、匿名記者とジェンダーの間に相関関係があり得る可能性は十分に考えられると答えた。
カステルビ氏が指摘したように、匿名記者アカウントの急増は確かに公共性を志向するジャーナリズムという活動の大原則に適わない側面があるように見える。しかし、匿名記者たちが語る動機を見ると、組織という縛りや暴力への恐怖から身を守りながら発信と交流ができる場として機能しているのもまた事実であることがわかる。確実に言えるのは、矛盾を孕んでいるようなこの現象が、デジタル化以降大きく揺らいでいるメディア業界の現状をそのまま反映しているということである。誰もが発信できる時代に、発信することを職業とする記者が匿名で発信することの意味について、デジタル時代における記者の職業規範の変容という観点からさらに考察していく必要があるように思われる。