2024.Mar.22
REPORTSKaren Shimakawa氏講演会
「身体、情動、アルゴリズム:AIとライブパフォーマンスの挑戦」報告
アリッサ・カスティロ・ヤップ(B’AIグローバル・フォーラム 院生メンバー)
・日時:2024年1月10日(水)17:00~18:30
・形式:対面
・会場:理学部3号館327教室(東京大学浅野キャンパス)
・言語:英語
・講演者:Karen Shimakawa(ニューヨーク大学ティッシュ・スクール芸術学部准教授・法学部教授)
・司会:矢口祐人(東京大学総合文化研究科教授)
<講演者>
Karen Shimakawa氏(ニューヨーク大学ティッシュ・スクール芸術学部准教授・法学部教授)
Karen Shimakawa氏は、パフォーマンス、パフォーマンス理論、批判的人種理論、およびアジア系アメリカ人の文化、法律、歴史に関する研究と教育にかかわっている。『National Abjection: The Asian American Body Onstage』(デューク大学出版局)の著者であり、Kandice Chuh氏との共編で『Disorientations: Mapping Studies in the Asian Diaspora』(デューク大学出版局)を手がけ、アジア系アメリカ人の演劇、パフォーマンス、文化に関する論文を発表している。現在のプロジェクトでは、日本のパフォーマンスアーティストたちの作品を含む、パフォーマンス研究の方法および(または)不快さとの遭遇に焦点を当てている。
<講演レポート>
Karen Shimakawa氏の講演は、1968年にロンドンで行われたピーター・ジノヴィエフとデリア・ダービシャーのパフォーマンス「無人のコンピュータのためのパルティータ」について振り返るところから始まった。ソル・ルウィットやオノ・ヨーコのような有名なアーティストが、同様に芸術作品のための「指示書」を作成した例を挙げつつ、Shimakawa氏はコンピュータのない「アルゴリズム的」であることの意味について考察した。彼女の講演では、アルゴリズムは人間が作り出したものであり、予測不可能な結果をもたらすものであるとされた。
Shimakawa氏は、AIの時代における最も深遠な問いのひとつを投げかけ、「パフォーマンス」の意味について考察した。彼女は、人工知能の時代における芸術、アーティスト、そしてその道具の間の複雑な関係を前景化したのである。彼女が言うには、「生身の人間の舞台芸術家と、それを配信、記録、仲介するテクノロジーとの関係において、AIの使用によって飛躍的に広がったギャップがある」。観客とパフォーマーにとって、人間のライブ・パフォーマンスの予測不可能性は、自発的な精神、欲望、期待の問題であると彼女は述べている。すなわち、私たちは観客としてしばしば、予測可能な結果を期待しており、ある結果をほかの結果よりも起こってほしいと思っている。
J.L.オースティンの言語哲学に由来するパフォーマティヴィティ概念は、Shimakawa氏の講演の中でも特に中心的なものだった。彼女は、彼女の専門分野のひとつであるパフォーマンス研究を、今日のAI開発が関わる作品や努力と結びつけるために巧みに用いている。言語には、現実を記述するために使われるものではなく、むしろ発話によって現実の概念を変えるような力を持つものもある。彼女は、ウェンディ・チュン、キャサリン・ヘイルズ、アレクサンダー・ギャロウェイズといった、人間の「パフォーマティヴィティ」とAIの「パフォーマティヴィティ」を区別する学者たちの研究を振り返るとともに、彼らの研究が教育、感情、そして商業的な目的などとの交差におけるAIの実際の使用法に与える影響についても言及した。Shimakawa氏は、これらの違いを説明するために、多くの場合制作の説明に基づいて芸術的パフォーマンスの現代的、歴史的な豊富な事例を私たちに紹介した。例えば、アニー・ドーセン(米国を拠点とする劇作家)、ザック・ブラス(ロンドンを拠点とするアーティスト、映像作家、劇作家)、ラシャード・ニューサム(米国を拠点とする映像、彫刻、パフォーマンスのアーティスト)の作品についての議論が含まれていた。
全体として、Shimakawa氏の講演は、ライブ・パフォーマンスがコンピュータによる実行とはどのように異なるのか、そしてなぜこの問いが今日の学者、AI開発者、アーティスト、パフォーマーのそれぞれにとって適切なのかを明らかにした。そして今日のAI技術を、芸術的創造やパフォーマンスの「協力者」と位置づけることで、AIを道具として使うか、AI技術を作者として評価するかという議論に残る、知識と権力の間の板挟み的な困難が明らかになった。芸術において、身体において、そしてアルゴリズムに関して、エージェンシーを定義する正しい方法があるのかどうか、答えを出すのはまだ難しい問題だが、パフォーマンス研究の分野が、人間と非人間的な創造性に関する、より大きな存在論的な問いのギャップを埋める助けになることは明らかだ。